行動日時:2025.06.28.
10:40 富田新道入口で日原林道を離れ、唐松橋(鉄橋)を渡ったところより長沢谷右岸に降り、沢足袋、ゲーターを装着して入渓した。後からガイドに引率されご年配パーティーが長沢谷左岸より降りてきた。ちょうど降りたところが小休止できる河原になっており、入渓ポイントの正解であると感じた。こちらは準備が整っていたので先に出発する。

思い返すと、この唐松橋へ降りてきたのは昨年12月で、さすがに沢に浸かるわけにはいかず、とは言え側壁をへつって進む渓ではなく、その時は沢を遡行するのを断念した場所である。
季節が代わり、最高の沢歩き日和となった今、いよいよ大雲取谷へ向けて歩き出すことに感慨深い思いで一杯になった。
因みに私の沢歩き(沢登り)経験は、前回の大雲取谷へ下降し「渓のベンチ」までの500m程のみである。その前までは、冬のシーズンであったため、沢に入らず、河原歩きと高巻きで歩いた、言わば「沢沿い歩き」であるため、今回の唐松橋から大ダワ林道の木橋までの道のりは結構な冒険であるといえよう。
【すべてに於いて試されている】
入渓後は、膝下程度の水位の穏やかな沢を進んだが、少し進んで右に曲がって行くと、大きめの落ち込みがあり、水深も深さがありそうだったので左岸の苔むしたスラブをへつって切り抜けた。初っ端からなかなか痺れる登りに高揚しつつ先に向かうと、今度は4~5mほどの立派な滝(入口の滝)が行く手を塞いでいた。どう見ても直登は出来そうにないので迂回(高巻き)する道を探す。岩の形状から左岸を高巻くように見えたが下から見ると苔むした岩をトラバースするように思え、正直あの苔むす岩を確保なしで進むのか…と不安な気持ちがよぎった。

左岸の岩と土の斜面を少し登り、行きつつ戻りつつ様子を窺うと目星をつけたルートに古いハーケンが打ち込んであるのが見えた。高巻きのルートは間違いないので後はルートとなる道筋の岩の状態を見極めて進むことにした。無理だと思えば引き返すくらいの気持ちで、まずは一挙一動を確かめつつ岩に取り付いた。
届く範囲のホールドは大方ポジティブな印象(クライミングでいうならガバである)であり、また脆い岩質でもないように感じた。ホールドがしっかりしている状態で体勢が制御できる範囲であれば、足場の岩の苔も然程気にならず、極力エッジのあるフットホールドを選びながら次の一手、一足を進める。自分が今まで実践してきたクライミングのスキルを総動員するイメージでこの難所を無事乗り越えた。

結論から言えば大したルートではないであろう。(正直5.9もない程度?)しかし、ビレイされているわけでもなく、また何かしら確保機があるわけでもない。高さ4~5mの沢の苔むした側壁を初見で登るという、見ようによっては危険極まる行為であるかもしれない。
もし万が一墜落したら、無事では済まないであろう。
【私が期待する困難とは】
では何故そんな危険な事をしたのか、その問いの答えはこうである。
私が見つけたルートは間違っていなかった。そしてそのルートを辿ってみた時に感じた印象が極めて悪くなかったことである。行くも出来れば、帰るも出来る、実際手に足にとった感触はその様であった。
不思議な事に、その感触を得た時の自分は冷静にその苔むしたルートを、足元の渓を見据えていて、恐怖という感覚は覚えておらず(といって無我夢中で乗り切った訳でもない)、最後まで慌てずに苔むした岩をじっくりと乗り越えることを考えていた気がする。つまり自分の能力としては危険に値しない範疇であると判断できたのである。(ただし、相手は大自然であるが故、不可避要因をすべて排除しているわけではない事は理解している。)
自分の能力を現場で投げかける事は、限界を見極め、また押し進める為の重要な行為であろう。その瞬間に、自分がどう感じるのかを、真摯に自分に問うことが出来るか…最後は自分が判断し行動する。またその行為に責任を持つために、日々研鑽を重ねるのであろう。
端から見たら無謀に思えるかもしれないが、我々はその瞬間が来ることを期待し、日々困難に乗り越えるための技術習得に励むのであって、決してそのリスクを望んでいるわけではない。
これこそ、今回この「入口の滝」を高巻きする事で感じた「気づき」であり、私がこの奥多摩山塊に求める「本質」であるのだろう。
まあ、実際のグレーディングを知ったら、そんな大騒ぎする事でもないだろう、という感じであるが。この滝を乗り越えた私は、まだ始まったばかりの行程ではあるが、何かやり切ったという達成感に満たされていた。そしてその後の行程は概ね穏やかな沢筋で、初めての沢登りが満喫できた。
ちょうど12時に大雲取谷との出会いに到着。昼食を摂り、地図を見ながらこの後の計画を立てた。

コースは二つ、①大雲取谷へ進み、前回の入渓点(昼飯渓)まで1.4㌔、高低差200m、②長沢谷ヘ進み、大ダワ林道入り口を下降した木橋まで1.2㌔、高低差100m、距離としては大した差はないが問題は標高差である。唐松橋入渓点から、ここ大雲取谷の出合までの標高差が60mほど、道中に高巻きした滝がある事を考えると、昼飯渓までの200mの標高差はリスクが高いと感じた。道中でまた大きな滝が出現し、その都度高巻きを強いられる可能性も否定できない。
そして最大の理由が残りの行動時間であり、14時までには大ダワ林道入り口へ戻る必要があり、昼飯渓まで進むと、二軒小屋尾根を乗り越える分、余計に時間が必要となる。
この様な状況下、単独行で一番怖いのは慌てて行動する事であり、その様なことから今回は②の長沢谷を木橋までのコースで遡行を続けることとした。

林道を歩いていた時の初夏の様な陽気とは打って変わり、渓は爽やかな風が吹き抜けていた。そして図示されていた通り、なだらかで深さも踝から膝下くらいの渓流が続き、その後1時間ほど最高な沢歩きを堪能して木橋へ到達した。
【総括】
ほぼ、初めての沢登りと言ってよいであろう今回の山行では、刺激に満ち溢れた気づきがたくさんあった。一番大きな収穫となった気づきとして、先の見出し「自分が期待する困難とは」に記した通り、困難は必ずしも危険な行為ではない、という事である。

山で行われる困難とは何か。今回の山行で言えば、苔むす岩のへつりや、想定外の滝が現れ、高巻きを強いられた難所のことであろうか。それらの危険を感じる場所で、引き返すか、突き進むかは自分次第である。自分にとってその難所(=困難)は危険なのか、それとも乗り越えられるものなのか、常に自分の気持ちをコントロールし、その時感じる自分の感覚(五感)を信じ、判断する必要がある。
そしてその感覚というものは当然のことながら十人十色であり、他人の評価は一切通用しないと言ってよいのではないだろうか。つまり、先ずは自分の能力を自然の中に投げかける(問いかける)行為があり、その時自分はどう感じたのかを真摯に受け止める事が出来るか、進むか戻るかの判断はそれからの話である。(勿論、圧倒的な自然の造形に畏怖の念を抱き、そんなときは有無を言わさず撤退もあるだろう…。)
自分の能力を真摯に受け止めるときの根拠となるものは、非常に抽象的な表現であるが、日々の鍛錬によって得た「我が身体の応答」であると思う。自然に触れたその時に感じる親和感というか、簡単に言えば落ち着き払った状態を保てる感覚である。
具体的な例としては、手に触れるホールドはポジティブな印象であり、身体を引き付けることに不安がない、それゆえしっかりと重心を落としフットホールドに乗り込んでいる、そんな状態であろうか。かなり感覚的な話で、「そんな奴が遭難に会うのだ」と非難されそうであるが…
まあ、ぶっちゃけそんなところである。

つまり何が言いたいかというと、それらの感覚を根拠に判断・行動を行えば困難は困難では無くなるかもしれないし、少なくとも困難に向き合ったときに突き進むだけの選択肢ではなくなり、少なからず危険を回避する方向に進めるのではないか、と考える。
無論、大自然を相手に全ての危険(リスク)を回避する事は難しく、それは自然に対するおごり以外の何物でもない事は重々承知の上で、私の途上中の考察である事をご了承頂きたい。
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